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東西狂言の会

関東の野村家、関西の茂山家の共演で、その至芸を、お楽しみいただく東西狂言の会。
春の一日、狂言の醍醐味を、心ゆくまでご堪能ください。

東西狂言の会
[中段] 撮影:政川慎治
[下段] 写真提供:茂山狂言会
   左:茂山千五郎、右:丸石やすし

[完売御礼]
本公演は終了しました

2016年 4月9日(土) 14:00開演

【全席指定】 会員3,600円 一般4,000円 高校生以下2,000円
中学生以上の方は公演当日に学生証または年齢が確認できるものをご持参ください。
託児サービス 500円、対象:1歳~未就学児、定員10名、要予約(2週間前まで)
*未就学児は入場できません。
【演 目】 番組

「東西狂言の会」の座席表は、ここをクリック!
※座席表の白抜きの席をクリックすると、その席からの舞台の見え方が確認できます。

膏薬煉[こうやくねり]

名人を自負する鎌倉の膏薬煉が、同じく名人と名乗る上方の膏薬煉と膏薬の吸い比べをしようと出かけたところ、道中で出くわす。そこでまずは互いの系図を語り合い、鎌倉方は馬吸膏薬の銘を、上方も石吸膏薬の銘を賜ったと語る。また、薬種を明かし合ううち、すっかり感心しあった二人は、最後に互いの膏薬で吸い比べることにするのだが・・・。

膏薬煉の対決という、奇想天外な発想が楽しい狂言です。前半は荒唐無稽なセリフの応酬、後半は仕草の面白さが笑いを誘います。

吹取[ふきとり]

清水の観世音から月夜に五条の橋で笛を吹けば妻を授けると告げられた男は、笛が吹けないので、知人に代わりに吹いてほしいと頼む。知人と共に五条の橋に出かけ、笛を吹いてもらうとお告げのとおり、女が現れるのだが・・・。

月夜に笛の音。叙情的な趣が、最後はなんとも狂言らしい展開に!曲中で実際に演者が笛を吹く珍しい演目です。

六地蔵

ある田舎者が地蔵堂に六体の地蔵を安置しようと都に仏師を探しにいく。するとすっぱ(詐欺師)が声をかけてきて、自分こそが真の仏師であると偽り、翌日までに六地蔵をつくる約束をして田舎者と別れる。すっぱは仲間を呼び出し、地蔵に化けて田舎者をだますことにする。さて翌日、田舎者が地蔵を受け取りにやって来ると、地蔵は三体しか見あたらない。もう三体はどこにと問うと・・・。

演者が所狭しと舞台を駆け回る賑やかな作品です。すっぱは田舎者をだまし通せるのでしょうか。本舞台と橋掛りを上手く使った、狂言ならではの表現もお楽しみ下さい。

【演者プロフィール】

野村万作

野村万作1931年生。重要無形文化財各個指定保持者(人間国宝)。祖父故初世野村萬斎及び父故六世万蔵に師事。3歳で初舞台。芸術祭大賞、紀伊国屋演劇賞、日本芸術院賞、紫綬褒章、坪内逍遙大賞など多くの受賞歴を持つ。国内外で狂言普及に貢献し、ワシントン大学やハワイ大学などで、客員教授を務める。2015年文化功労者として顕彰を受ける。

野村萬斎

野村萬斎1966年生。野村万作の長男。祖父故六世野村万蔵及び父に師事。重要無形文化財総合指定者。3歳で初舞台。「狂言ござる乃座」主宰。国内外での狂言公演はもとより、現代劇や映画の主演など幅広く活躍。芸術祭新人賞、芸術選奨文部科学大臣新人賞、朝日舞台芸術賞、芸術祭優秀賞等を受賞。世田谷パブリックシアター芸術監督。

茂山あきら

茂山あきら1952年生。故茂山千之丞の長男。祖父故三世茂山千作および父に師事。3歳で初舞台。76年、花形狂言会を発足。従兄弟の千五郎、七五三と主宰する。古典狂言のみならず、新作狂言や千年振りの復曲「袈裟求」など演じ、狂言の大衆化に力を注ぐ。現在は千五郎・七五三と共に、桂米朝一門を巻込み『お米とお豆腐』を立ち上げ、新たな試みに挑戦中。

野村万作インタビュー

20年前、三鷹市芸術文化センターの杮落し(こけらおとし)を「三番叟(さんばそう)」で飾っていただいた野村万作師。
その翌年から始まり、現在は三鷹市公会堂で毎年開催している「東西狂言の会」をこの春に控え、
芸歴80年を迎えて、ますます芸の凄みを増される野村万作師に、お話をうかがいました。

──昨年3月、三鷹市芸術文化振興財団は設立20周年を迎え、1995年11月3日に、万作先生に「三番叟」で杮落しを飾っていただきました三鷹市芸術文化センターも、無事20周年を迎えることができました。万作先生には、その「三番叟」以来、毎年、三鷹で公演をしていただいておりますが、三鷹での公演はどのように感じていらっしゃいますか?

野村万作万作 まずは、20年連続で開催していただいているというのは、あまり多くないケースでございましてね、大変ありがたく思っております。そしていつも、車で会場に到着しますと、入場口あたりの看板に「満員御礼」と書かれているのを拝見しましてね、「ああ今日も満員なのだなあ。たくさんのお客様に集まっていただいているのだなあ」と、開演前から、大変嬉しい予感が沸いてまいります(笑)。そして、杮落しの翌年からでしたか、関西の茂山家をお呼びして『東西狂言の会』が始まりまして、茂山千作さん、千之丞さんのご兄弟を交互にお呼びして、開催してまいりました。この、和泉流(野村家)と大蔵流(茂山家)の狂言を一度に観ていただくという公演も、今ではほぼ、三鷹だけなんですね。そういう意味でも、特別な催しだという思いで、演じています。

──ありがとうございます。今ではとても貴重な会となった『東西狂言の会』を、毎年手掛けさせていただいて、本当に光栄に存じます。

万作 昔は、練馬のホールでも同様の会を実施しておりましたが今はありませんし、関西でも、神戸と東大阪でそういう公演を開催していらっしゃった大蔵流の狂言師の方があったのですが、先に神戸での会が終わり、東大阪の会も今年で最後になります。国立能楽堂では、流派を超えた会が開催されてはおりますが、三鷹ほど長く続いた会はありませんからね。千作、千之丞のご兄弟は、私よりも年が上ですが、戦後一緒に育ってきた時代がございまして、同志的な意識が強くあったものですから、お互いに呼んだり呼ばれたりして、芸を披露していくという会は、昔はよくありました。今は本当に三鷹だけになりましたね。

──近年、公演をしていただいている、三鷹市公会堂の雰囲気はいかがでしょうか?

万作 とても気に入っています。なぜかというと、舞台に対して、客席が扇状に配置されていますので、能楽堂のようにお客様に囲まれているような感じがしましてね。お客様を身近に感じることができて、一体感、融和感が生まれやすいということで、とてもやりやすいですね。

──ありがとうございます。さて、万作先生は3歳から狂言の舞台を踏まれており、昨年芸歴80年を迎えられました。心よりお慶びを申し上げます。

野村万作万作 いや、これはもう特別なことは何もありません。そういう家に生まれたというだけですから。「靱猿(うつぼさる)」という演目の、子猿の役で初舞台を踏んだわけですが、子猿は小さいほどかわいらしいということで、3歳という、まだ物心付かないうちから狂言をさせられておりますが、正直、若い頃は迷惑だなと思った時期もありました(笑)。ただ、今にして思えば、80年という長い年月やらせてもらったということは、自分なりの進化をしていく中で、非常に貴重な時間だったと思います。特に、だんだんと高齢になってきますとね、今まで稽古をしてきた時間や、務めた舞台の貴重さを、ひしひしと感じますね。

──お若い頃は、稽古が嫌だったという時期も、お有りになったんですね。

万作 稽古そのものがというよりもね、他の子どもと違うことをやるというのが嫌でしたね。友達と一緒にいたいし、同じ遊びをしたい年頃ですから、特別なことをしているというのは、決して嬉しいことではなかったんです。

──ご出演されている狂言公演を、お友達が観にいらっしゃったことは?

万作 無かったですね。私から呼んだりは、勿論しませんでしたし。今でこそ、中学時代の同級生が観に来てくれたりすることはありますけどね(笑)。そういえば中学生の時にね、なんと僕が通っていた学校に、うちの父親(六世野村万蔵)が狂言をやりに来ることになりましてね。「絶対に出たくない」と言って逃げました(笑)。友達は皆、私が、狂言の家に生まれて、狂言を演じていることは知っていて、そのことを尊敬してくれてもいたのですが、とにかく、特別なことをやっているというのが嫌だったんですね。友達と映画を観たり、遊びに行ったりする、普通の放課後を望んでいました。

──昔は、狂言を鑑賞されるお客様が少なく、苦しい時代もあったとお聞きしています。

野村万作万作 まだ私が幼稚園かそこらの頃でしょうか、青山の、今は草月ホールがある場所に古い能楽堂がありましてね、400人くらい入る会場でしたが、お客様がいつもパラパラという感じだったのを覚えています。その能楽堂には客席は桟敷席で、座布団が敷いてあったのですが、いつも開演前に、その座布団の上をポンポンと飛んで遊んでいたのは覚えているのですが、始まってから満席だったという記憶が一度も無い(笑)。ただ、当時住んでいた巣鴨から青山まで、衣装を入れた大きな行李(こうり)(竹製のつづら)を載せて人力車で移動していたので、それに乗るのが楽しかったのと(笑)、終演後に祖父(五世野村万造)が、よく皆を銀座の老舗の天ぷら屋に連れて行ってくれたのは覚えていますけどね。会そのものは、お客様が少なかったという記憶しかないですね。

──その頃の稽古は、おじいさまや、お父様が、つけられたのでしょうか。

万作 そうですね。小さい頃は祖父が稽古をつけることが多くて、やはり孫ということもあってか優しかったですし、稽古が終わるとご褒美をくれたりしましたし(笑)。でもやがて父による稽古になると、父は本当に厳しくて、特に小学校に上がった頃からは、その厳しさも増していきましたね。でもそれは、修業の世界においては、いつの世にも変わらぬことかもしれません。今私が、萬斎を仕込む時と、孫である萬斎の子供を仕込む時では、やはり厳しさの度合いが少し違いますからね。

──昨年は、芸歴80年目の節目に大曲「釣狐」を演じられるなど、ますますチャレンジされていらっしゃる万作先生ですが、健康面で気をつけていらっしゃることなどありますか?

万作 特別な体力作りなどはしていないのですが、日々、弟子に稽古をつけていましてね、これが体力的にキツい(笑)。どんどん難しい曲(演目)にもチャレンジしていきますしね、公演が立て込んでいる時期に「教えてください」と来る時もある。で、稽古をつけると「舞台が近付いているのに、この程度では困る」という時もあって、そうするとどうしても熱が入ってしまって。出来が悪かったり、覚えていなかったり、間違ったりすると、つい怒鳴ってしまうこともあって、それでくたびれちゃうんですね(笑)。

──狂言を伝えていくという思いを込めた、お弟子さんへの熱のこもった稽古が、万作先生の気力や若さの(みなもと)ということでしょうか。

万作 そうですね。弟子が難しい役をやる時は、名誉にかけて立派にやってほしいと思いますしね。上手くできなくてもいいから、修業年齢に見合った、きちっとしたことをやらせたいと思いますし、そういう芸を伝えたいと思います。

──公演が終わった後に、「出来が良くなかったから、今から稽古」なんてことも、あるのでしょうか?

万作 それをしたい時もありますが、それをすると弟子が可哀想ですし(笑)。だからまあ、本番の舞台に向かうまでが勝負で、やってしまえば、後はそれぞれの演者が自分なりに反省し、今後に活かしていくということで良いと思っています。私の場合は、若い頃から、自分がどう演じたかよりも、相手役がどういう風に演じたかをノートに書き留めてきました。「習った時はこうだったが、晩年の父はこういう風に演じた」と書いておくと、若い頃には判らなくても、いつの日にか「あの日の父の型は良かったなあ」という想いが湧いてくることがあり、やってみることで、芸が広がっていく訳です。そういう「その日の舞台を、自分なりにきちんと型付けする」つまり記録する人と、終わった後はすべて忘れる人では、自ずと芸に違いが出てくると思いますし、すごく大事なことです。

──舞台に立たれるにあたって、心掛けていらっしゃることはございますか?

万作 登場に際して幕を揚げる時に、主役の人間は「おまーく(お幕)」と言うんです。これはお客様には聞こえないくらいの声で言いますから、皆様はご存じないと思うのですが、その声を聞いて、担当する2名の者が、幕を揚げるんですね。その時、どういう役をやるかで「おまーく」の言い方が多少違います。悲しい役だったら“少し沈んだ声でゆっくり”と。元気な役だったら“力強く一気”に。そして、幕を揚げる者の心得として、その声に呼応して、ゆっくりと揚げたり、“パッ”っと揚げたりする訳です。そうやって、役を背負って舞台に出て行く時に、どういう心持ちで歩くかということを非常に大事にするように、いつも心掛けています。

──なるほど。お客様にはぜひ、これから狂言をご覧になる際には、幕から出てすぐの万作先生のお姿にご注目いただければと思いますが、次回、三鷹での『東西狂言の会』は4月。万作先生に演じていただきます演目は「六地蔵」となります。

万作 毎年、なるべく新しい曲をと思ってはいるのですが、三鷹で20年やらせていただきますと、2回目、3回目という曲も出てくるかと思いますが、この「六地蔵」は“面白い狂言は何度観ても面白い”という、もう理屈抜きに楽しめる狂言です。三鷹では今から15年くらい前に、万之介(万作先生の弟で、亡くなられた野村万之介師)が演じていますが、私の「六地蔵」をご覧いただくのは初めてとなります。私は、狂言を修業する者には、「まず美しい演技をしろ、それから面白い演技をしようと思え、そして最後に、おかしい演技をしろ」と言うんです。すなわち心得として「一番最初に、おかしい演技をやろうと思ってはいけないよ」ということなんですが、この「六地蔵」は、254ある狂言の演目の中でも、その面白さの到達点である「おかしい」を存分に味わえる、代表のような曲です。ですからどうぞ、リラックスして楽しんでいただければと思います。

──ありがとうございます。お話を伺っていると、万作先生は日々、狂言のことを一心にお考えになっていらっしゃると拝察いたしますので、このような質問を差し上げるのはまことに恐縮なのですが、先生は普段、狂言を離れての趣味などはお持ちなのでしょうか?

万作 テレビでのスポーツ観戦ですかねえ。特にマラソンは好きで、大きなレースだとゴールするまでずっと見ています。ただ最近は、優勝争いをする日本選手が減ったので少し残念ですが(笑)。あとプロ野球も見ますね。

──プロ野球はどちらがお好きなのでしょうか?

万作 言ってもいいのかなあ(笑)。ソフトバンクですね(笑)。と言ってもね、私の中ではホークスはホークスでも『南海ホークス』でしてね、そこから繋がってソフトバンクホークスを応援しているということなんです。

──南海ホークス!懐かしいです!

万作 1951年〜1953年頃の南海ホークスはね、『100万ドルの内野陣』と言われていて、蔭山、木塚、岡本、飯田とね、小さい選手がとっても華麗な内野守備を誇って活躍していたんですよ。私は、弁慶より義経が好きでね(笑)、だから大きな人がホームランを打つよりも、小さな人が華麗な守備をしてくれるほうを好んだんですね。後は杉浦(ただし)というね、長嶋茂雄と同じ立教大学出の下手投げのピッチャーがいてね、大好きでした。

──スポーツをされるほうはいかがでしたか?

万作 子どもの頃から、何でもできました(笑)。運動神経は割と良かったと思います。野球も得意でしたし、相撲も強かったと思います。実は、腰をしっかりと落として演じる狂言の演技が、腰の“安定感”や“切れ”を生んでいましてね、相撲の強さに繋がっていました(笑)。後は“跳躍力”ですね。西洋のバレエのような“ふわ〜っとした”跳躍ではなく、“エイっと飛んで、ドスンと(いわお)のような塊になって落ちる"跳躍ですから、やはり相撲には生きたようです(笑)。

──野球は、どこを守ってらっしゃったのですか?

万作 どこでも守りましたが……。まあ、キャッチャーは嫌いでしたが(笑)。そういえば、年を取ってから一度やる機会があったのですが、野球ってあんなに難しかったかなと(笑)。外野を守ったのですが、いやあ、フライなんて全然取れませんでした(笑)。

──では最後になりますが、三鷹のお客様にメッセージをお願いいたします。

野村万作万作 日本の古典芸能にもいろいろありますが、その中で狂言は、庶民目線で作られた劇でありますから、時代を隔て、国を隔てても、伝わる面があります。ただ、その反面「言葉が判らないと、つまらないと言われてしまう」芸でもありまして、例えば能や歌舞伎は、あまり判らなくても「OH!ワンダフル!」と言われることもあるようですが(笑)、狂言はなかなかそうはいきません。やはり、役者が喋っている言葉を汲み取って、中身が判って初めて「ああ、面白いな」と思っていただける芸能ですから、皆様に古い日本語を愛していただいて、日本人の作った笑いを存分に味わっていただけたらという思いで、これからも演じ続けてまいります。例えゲラゲラと声を出して笑わなくても、「楽しいなあ、面白いなあ」と思っていただいて、皆様の明日の糧になればいいなあと。狂言がお客様とともに、そういう育ち方をしていけたらと思います。春、三鷹市公会堂で、お待ちしています。

──本日はありがとうございました。
(8月28日 文京区「よいや舞台」にてインタビュー)
[インタビュアー]森元隆樹(三鷹市芸術文化振興財団)

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