立川志らく 撮影:橘 蓮二
[完売御礼]
本公演は終了しました
2015年 2月14日(土) 昼の部14:00/夜の部18:00開演
【全席指定】 | 各回 会員2,700円 一般3,000円 学生2,000円 高校生以下1,000円 |
* | 昼の部と夜の部は別の演目です。 |
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500円、対象:1歳~未就学児、定員10名、要予約(2週間前まで) *未就学児は入場できません。 |
【出 演】 | 立川志らく |
落語への深い愛によって力強く掴まえた噺の真髄に、
次から次へと湧き上がるアイデアを絡ませていき、
聴く者を、自らの世界にいざなっていく、立川志らく。
他の追随許さぬその切れ味を、ぜひ、ご堪能ください。
Interview 立川志らくインタビュー
星のホールでの独演会や、レギュラーで出演中の寄席井心亭で、三鷹ではお馴染みの立川志らくさん。
溢れるほどのアイデアと、切れ味鋭い語り口で、観客をぐいぐい引きこんでいきます。
立川談志師匠が亡くなって3年経った今、志らくさんに、お話を伺いました。
師匠・立川談志と、もっともっと芸の事で、丁々発止の話をしたかったですね。
志らくさんは、お父様がギター奏者で、お母様は長唄の師匠というご家庭にお生まれになりましたが、やはり小さな頃から芸事に親しまれたのでしょうか。
志らく そうでもなかったです。初めての習い事として、小学校高学年の時にピアノを習わされたのですが、その頃から『人に物を教わるというのが嫌』で(笑)。すぐに辞めました(笑)。でもね、ハーモニカやオカリナなど、後に手にした楽器は、独学ですぐ弾ける。中学生の頃には、自分の好きな曲を弾いたり、オリジナル曲を作ってカセットテープに吹き込んだりしていました。とにかく独学でやらせてくれるかどうかなんです(笑)。独学だったら、音楽の分野でも大成していたんじゃないかなと思います(笑)。
そんな中、初めて落語に触れられたのはいつ頃ですか?
志らく 小学生の時に、たまたまNHKの「なつかしの名人会」を見ていたら、三代目三遊亭金馬の『藪入り』が物凄く面白かったんですね。で、当時、父の書斎にクラシックやジャズや落語のレコードがたくさんあったので探してみたら、偶然同じ音源のレコードがあったんです。それから、書斎にあった古今亭志ん生・桂文楽・三遊亭圓生・桂三木助などのレコードを片っぱしから聞き始めたのが、落語の原体験ですね。繰り返し繰り返し、まるで音楽を聴くように、ずっと落語を聴いていましたから、すぐに全部覚えちゃいました。
覚えた落語をどこかで披露されたりなさったのでしょうか?例えば学校とかで。
志らく いえいえ。中学生の頃にはもうかなりの数の落語ができましたが、学校で披露したことはなかったです。ただある時、自分の部屋で落語を語っていたら「二階で息子が何かぶつぶつ喋っている」と家族の間で話題になったらしくて(笑)。よく聞いてみると「どうやら落語らしい」と(笑)。そして「結構上手なようだ」と(笑)。それで、親戚の前で披露させられたことはありましたね。
クラスメイトに落語好きは?
志らく 全くいなかったですね。たまにいても「人気落語家をテレビで観た」程度だったので、私の聴いていた落語の世界がディープ過ぎて、話が合わなくて(笑)。
その頃すでに、寄席に行かれたりされていたのでしょうか?
志らく いえ、落語を聴きに行き始めたのは高校生になってからで、中学時代はもっぱら映画館通いでしたね。テアトル新宿とか、渋谷東急名画座とか、確か三本立てで(中学生は)入場料が300円くらいだったと記憶しているのですが、むさぼるように映画を見ていました。新宿の花園神社の側に映画ショップがあって、そこに映画好きが集まってチラシの売買をしていたのですが、無許可だったからなのか、理由はよく判らないけど、ある時警察の手入れをくらってしまい、走って逃げたりとかしてましたね(笑)
それもなかなかディープなお話ですね(笑)
志らく そう、だから映画においても、クラスメイトとは話が合わなくて(笑)。なので映画館にも大抵一人で行ってましたし、手入れをくらった映画ショップでも「大人の中に、なぜか中学生が一人混じってる」って感じでしたね(笑)。
勉強のほうは、いかがだったんですか?
【高校生の頃/左から2人目が志らくさん】志らく 中学を卒業するまでは、周りが驚くほど、全く勉強しませんでしたね。というか、とにかく『人に教わるということが嫌』なんだから、授業なんか聴いていられない(笑)。親が心配して、無理やり塾に行かせたり家庭教師つけたりするんだけど、もっと嫌で(笑)。だから勉強は一切しなかったけれど、それでもまあ小・中の間は何とかなっていましたが、高校に入るとそうもいかなくなってきたので、自分で編み出したのが「教科書ガイド丸暗記法」。教科書の文面を丁寧に解説し、質問の答えがしっかり書いてある「市販の教科書ガイド」を、とにかく丸暗記すれば点は取れると。だから授業は聞いてないけど、試験では常にベスト10入りの優等生(笑)。特に国語と英語と社会は、この方法で完璧でした。ただ数学は、先生が数字を変えて出題してくるので丸暗記が通用しなくて(笑)ちょっと骨が折れましたね(笑)
落語家を志されたのはいつ頃でしょうか?
【大学の落研時代】志らく 高校卒業後、日本大学藝術学部に入学しましたが、映画の道に進みたいと思っていて、落語家になろうとは全く思っていませんでした。ただその頃、先代の十代目金原亭馬生師匠が好きで、師の高座をよく聴きに行っていたのですが、ある時、渋谷の東横名人会という落語会での馬生師匠の高座が、物凄く体調が悪そうだったにも関わらず気迫が凄くて「この人の弟子になろう」と瞬時に思ったんです。ところが、それからなんと十日後に、テレビで、馬生師匠が亡くなったことを知って。弟子になろうと思った矢先のことでびっくりしましたが、お葬式に行って手を合わせ「弟子になりたかったです」という気持ちだけ伝えて帰ってきました。それが大学1年の夏のことです。
なるほど。その後、立川談志師匠に弟子入りを決められた理由は?
志らく その馬生師匠のお葬式の頃に、ふらっと池袋演芸場に入ったら、談志が「馬生師匠が死んで、今日は落語をやる気分じゃないんだ」と言って、馬生師匠の思い出話だけをして高座を降りたんです。それがすごくかっこよかったんですね。でも談志に弟子入りするということは、定席の寄席には出られないということだし、どうしようかなあと思っていたのですが、じゃあ誰に弟子入りするのかと考えつつ落語会に行っても、馬生師匠や談志ほど心を動かしてくれる人は全くいなくて、そうこうしているうちに大学4年生になっていました。実は大学の落語研究会(落研)には、馬生師匠が亡くなった後、すなわち大学1年の秋に入ったのですが、4年生のある日、落研のOBで放送作家として売れっ子の高田文夫先生がいらして「落語やってみろ」と仰ったので一席語らせてもらったら、高田先生から「お前は売れる。誰に弟子入りしたいんだ」と聞かれたので、反射神経で「高田先生と同じです」と答えたら「よし、じゃあ連れて行ってやる」と言われ、そのままTBSラジオに出演中の談志の元に連れて行かれました。そしていきなり「こいつは才能あるから、弟子に取って下さい」「お前が才能あるって言うならいいよ」って会話が繰り広げられて、入門となりました。
すごい展開ですね。入門されてみて、いかがでしたか?
【前座の頃】志らく 弟子として毎日師匠についてまわる日々が始まったのですが、師匠が会う人会う人全員に「こいつ才能あるから」って言ってくださって、新宿末広亭に連れていかれた時なんて、いきなりお席亭に「こいつ天下取るから」とか仰って。初高座の時も、群馬県高崎市で開催された「立川談志・春風亭小朝二人会」だったのですが、まったく受けなかったのに、高座から降りてきた私に「それでいいんだ」と。「こんな上手い前座は見たこと無い。そう思うだろ、小朝」とか仰って、小朝師匠も思わず「はい」とか頷かれて(笑)。でもその後、あまり高座の出来が良くない時は「才能あるって言ってるのに、俺のめがね違いになる」と言われることもありましたね(笑)。
しくじりとかは無かったのですか?
志らく いやいや、私は気が利かないので、弟子としてのしくじりはもうたくさん有りすぎて、ここで話していたら切りが無いほどで(笑)。実は立川流においては、弟子は築地の魚河岸で働くのが決まりだったのですが、私だけは最初から「行かなくていい」と言われていたんですね。ところが、しくじりの数々を見るに見かねたのか、入門して半年くらい経った頃、師匠に急に呼ばれて「座んなさい」と。それから「築地に行きなさい」と。師匠は丁寧な言葉遣いの時のほうが怖いんですが、この時もすごく丁寧な言葉遣いで(笑)。でも私は即答で「嫌です」と。そうしたら師匠は「嫌なら破門だ」と。なので私は「破門も嫌です」と。そうしたら師匠は「じゃあ、いろ」と。
すごいやりとりですね。聞いているだけでドキドキします。
志らく で、まあ築地行きはまぬがれ、それまで同様の前座生活が続いたのですが、やがてその話が伝わると、兄弟弟子からは『総スカン』状態でした。「師匠から命じられたにも関わらず、築地行きを断った生意気な奴がいる」と。
それは大変でしたね。
志らく まあでも、それが自分の本心でしたからね。魚屋になるために落語家になったんじゃないと。自分を曲げると自分の良いところが無くなってしまうという思いは、今も昔も変わりませんから。でも兄弟弟子からは『総スカン』(笑)。その頃、声を掛けてくれたのは談春兄さんくらいでしたね。
談春さんとは、その頃良く遊んだという話を聞いたことがあります。
志らく まあ遊んだと言っても、二人とも子供だったしお金も無いし、だからゲームセンターに行ったりとか、かわいいもんでしたけど、あの頃、談春兄さんが心の拠り所だったのは確かですね。でも、ずっと友情で結ばれていると思っていたのに、後年談春兄さんの本を読んだら「こいつにくっついていたら、いいことあるかなと思った」とか書いてあって、なんだ計算して付き合ってたのかと(笑)。
談春さんは無類のギャンブル好きですが、一緒にギャンブルをされたことは?
志らく ありましたよ。ただ、確かに談春兄さんはギャンブルが大好きなんだけど、勝つのは自分のほうでしたね(笑)。
そんな時代を経て、やがて真打になられます。
【真打昇進披露の会にて】志らく 自分としてはね、もう少し名前を世間に知らしめてからと生意気にも思っていたのですが、ある時師匠から「まだ真打になんねえのか」と言われまして。そこで「イベントとして、記念に試験をしよう」と私が考え、有難いことに『真打公開試験』というイベントが実現し、客席に師匠談志が座り、お客さんの前で認めてもらったという形で、真打に昇進と相成りました。
談志師匠が亡くなられて3年が経ちますが、ご自身の中で変化はありますか?
志らく 師匠が生きている時は、とにかく自分は2番手3番手なんだと、それは悪い意味ではなくて、安心感に近い思いで、常にトップには師匠談志がいるのだから、自分はまだまだ精進してという思いが常にあったのですが、それが今は、自分が一番手としてお客さんに聞いてもらっているんだなと感じるようになりましたね。心構えと言いますか、心の持ち様と言いますか、そのあたりは変化した気がします。
今、談志師匠にどんな思いを馳せていらっしゃいますか?
志らく 師匠と、もっともっと芸の事で、丁々発止の会話をしたかったですね。もちろん生前も師匠とはいろいろな話をして、おそらく弟子の中では一番話をしているんじゃないかと思うくらい話をしたけれど、あと10年生きていてくれたら、もっともっと芸の話をすることができたんじゃないかと思うんです。例えば師匠は、藤山一郎や二葉あき子はあまり贔屓ではなかったけれど「師匠、藤山一郎のこういうところ、いいと思いませんか?」なんて突っ込んで話してみたり、「師匠の好きなフレッド・アステア主演の映画イースターパレードですけどね」と自分が思うところをぶつけてみたり。特に若い頃にね、師匠に「どうだい?」と言われ、よく分かっていないのに「いいですね」と言ってしまったことでも、今の自分なら、自分の言葉で師匠と話ができると思うんです。自分は師匠のイエスマンでは無かったので、師匠と意見が違う話も随分してきたとは思うのですが、もっともっと芸の話ができたなら、仮に師匠と意見が合わなくても、師匠ならそれを喜んでくれて「あれはあれで認めるよ」と言ってくれたような気がするんです。もっともっと語り込みたかった。本当に残念ですね。
志らくさんの中で、今、談志師匠の芸はどのように生きていますか?
志らく 師匠の落語の一番凄かったところは『はちゃめちゃにしながら、江戸の風を吹かせてる』ところです。とにかく凄かった。真似できない。私の場合、はちゃめちゃにすると、ただ、はちゃめちゃなだけになっちゃうんですよね。師匠の晩年に一度だけ「イリュージョンをやりながら江戸の風を吹かせたいんですが、吹かないんですよ私は。どうやったらいいですか」と聞いたことがあるんです。でもね、「はあん?」と一言言われただけで、話を逸らされてしまった。自分もいつか『はちゃめちゃにしながら、江戸の風を吹かせ』たいですね。
談志師匠に言われた言葉の中で、一番覚えていらっしゃる言葉は?
高校生の頃/左から2人目が志らくさん志らく 二ツ目になった時に言われた「お前だけは馬鹿になるなよ」ですね。油断して、芸事において馬鹿になるなよという言葉だと思っています。
では最後に、これからの志らくさんの目標を教えてください。
志らく まあ先のことを考えてもどうなるかはわからないのだけど、とにかく、人に何を言われても、自分を貫き通して生きていきたいですね。これを止めた時は、自分の限界が来る時だと思います。人に何か言われて、自分はそう思ってないのに「そうですね」とそれに従い始めたら、自分はおしまいだと思っています。